三条大橋の擬宝珠 黒川翠山撮影 京都市歴史資料館蔵
三条通のまちづくり:今とこれから
三条大橋の擬宝珠
この写真は、京都市歴史資料館に所蔵している黒川翠山撮影のガラス乾板の内、三条大橋の擬宝珠を撮影したものです。
黒川翠山(1882〜1944年)は、明治から昭和にかけて活動した京都出身の写真家。黒川は芸術的な写真を志向しており、日常的な風景や町並みの写真は少なく、神社仏閣や、富士山、嵐山といった名勝の写真が多いのが特徴です。
三条大橋は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉によって架けられた橋で、擬宝珠にはその際の銘文が刻まれており、その銘文もはっきりと撮影されています。
銘文と要約は以下の通りです。
〈擬宝珠銘文〉
洛陽三條 之橋至後
代化度往 還人盤石
之礎入地 五尋切石
之柱六十 三本蓋於
日域石柱 橋濫觴乎
天正十八年庚寅 正月日
豊臣初之 御代奉
増田右衛門尉
長盛造之
〈要約〉
京の三条の橋は、後世において往来の人々の助けとなるでしょう。
その礎石は、しっかりと地に入り、石の柱は六十三本におよびます。これは我が国において、最初に石柱を使った橋の始まりです。1590年(天正18年)正月、豊臣秀吉の家来である増田長盛が造りました。
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長谷川松寿堂
長谷川松寿堂は1919年の創業以来、 京の伝承技術を今日に活かして色紙・短冊・和紙工芸品を専門に、格調高くユニークな和紙製品を提供しています。金封、書画用紙、友禅紙など季節の挨拶やプレゼントなどにピッタリな和紙製品が揃っており、京都の店舗だけでなく全国の催事にて出展販売をしています。
六角通で創業しましたが、1936年(昭和11年)に現在の三条通へ移転し、1965年(昭和40)年)までは店の前で祇園祭のくじ改めが行われていました。
京都市都市景観賞受賞を受賞した現在の建物は2005年(平成17年)に建て替えられた現代建築で、一文字瓦の水平ライン、格子戸や虫籠窓をモチーフとした開口部、ダイナミックに張り出した庇など、建物規模に合わせた町家要素の転用がなされ、町並みへの配慮が感じられます。
6階建ての建物ですが、1階の壁面を後退し、通り庇(ひさし)を設け4階以上を通りから見えないように後退するなど「通り」に気を使ったデザインは、市街地建築物の推奨事例となっています。さらに、正面デザインは元の町家への愛着から、近代的素材を用いながらも町家による街並み景観を再現し、町通りの景観形成のガイドラインの役割を果たしています。
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1928ビル
京都三条通の歴史的建築物の中でも、昭和3年(1928)に建設された「1928ビル」は特筆すべき存在です。
関西建築界の父とも称される武田五一によって設計されたこのビルは、幾何学的な線とパターン化された模様を特徴とするアール・デコ様式を基調としつつ、ロンバルディア帯や20世紀建築の巨匠・FLライトの影響を受けた水平ルーバーの窓など、折衷的な要素を取り入れた自由なスタイルが特徴で、窓に見られる★型は、毎日新聞社の社章に由来しています。
このビルの建設背景には、明治以降の三条通の歴史が深く関わっています。
江戸時代には三条大橋が東海道の終着点でしたが、実際には三条東洞院付近が終着点であり、京都と大阪を結ぶ物流や情報の拠点として栄えていたのです。明治時代になると、馬借や馬車会社に代わり、銀行や電話局、新開社、商店などが煉瓦造りの洋風建築として建設され、三条通は京都のメインストリートとして発展しました。
1872年に西京電僧局が建設され、同年には集書会社、後に京都府が設立した図書館などが建てられました。1874年には西京電官局が三条東洞院に移転し、三条烏丸に第一国立銀行神戸支店西京出張所が開設されました。続いて竹原銀行や大阪朝日新聞京都支局が開設され、三条通は情報や金融、商業の中心地としての地位を確立したのです。
20世紀に入ると、日本銀行京都支店や第一銀行京都支店が建設され、1909年には京都YMCAが建てられました。1920年には西村貿易店社屋が竣工し、1925年には萬年社京都支社が建設され、1928年武田五一の手によって毎日新聞京都支社として1928ビルが竣工したのです。
1928ビルを含むこれらの歴史的建築群は、京都三条通の現在の街並みを形成する重要な要素となっています。
これらの建物は文明開化の象徴として、京都のメインストリートである三条通に建ち並び、京都ならではの歴史的背景を物語っています。
(左)星形の窓とロンバルディア帯(中央)柱に埋め込まれたアールデコ調の照明(右)窓を横切る水平ルーバー
GoogleMapで見る昭和43年(1968)開館当時の平安博物館 公益財団法人古代学協会蔵
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平安博物館
平安博物館 第一室 昭和時代 公益財団法人古代学協会蔵
平安博物館 中央ホール 昭和時代 公益財団法人古代学協会蔵
平安博物館は財団法人古代学協会が設立した研究博物館です。昭和43年(1968)に開館し、約20年にわたって、平安文化という非常に特色あるテーマを掲げた博物館活動を展開しました。
平安京跡を主とした国内外の考古発掘調査、『源氏物語』や『七条令解』など多数の重要史資料の収集・調査で大きな成果をあげました。
また公開講演会や講座、さらに博物館内に設置された平安宮内裏清涼殿(部分)の実物大模型を舞台とした古典文化復元の催し(白拍子舞、五節舞など)、数多くの社会教育事業も実施してきました。
京都府では、博物館法に基づく登録博物館の第一号も平安博物館でした。
現在、この博物館で展示・研究されていた資料の多くは京都府京都文化博物館に引き継がれ、その建物は京都文化博物館別館として多目的に活用されています。
GoogleMapで見る三条通を巡行する北観音山 1954年 衣川太一コレクション
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1954年、三条通の祇園祭山鉾巡行
道にも建物前にも多くの人々が集まっていますが、それもそのはず。撮影日は7月24日で、祇園祭の後祭で山鉾巡行の日です。
この写真には、赤レンガの建物である日本銀行京都支店(現・京都文化博物館別館)の前で北観音山が巡行している姿が写っていますが、1965年まで三条通は山鉾巡行のルートの一部でした。
このエリアは、多くの金融機関が集積していたことでも知られ、1947年には東京銀行が横浜正金銀行京都支店を継承し、1954年7月に京都銀行へ譲渡されました。
この写真に写っている東京銀行の看板は、譲渡直前の時期であることを示唆しています。
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1954年、三条通の祇園祭山鉾巡行
山鉾巡行前の三条通 1954年 衣川太一コレクション
また、日本銀行前を過ぎ三条通を東に進むと、和紙製品の名店・長谷川松寿堂があります。
この店前で、後祭のくじ改めが行われていました。くじ改めは、山鉾巡行の順序を決定する重要な儀式で、京都市長が奉行役を務めるための白布のかけられた机と椅子が設置されていました。
また、当時は山鉾から見物客に厄除けの粽(ちまき)が投げられる習慣があり、この店の2階からも粽を受け取ることができたと言われています。
GoogleMapで見る2022年に復興した鷹山(撮影:2023年7月24日)
三条通のまちづくり:今とこれから
祇園祭
2022年に復興した鷹山(撮影:2023年7月24日)
祇園祭は京都を代表する伝統的な祭礼で、その歴史は古く、現代に至るまで数多くの変遷を経てきました。そんな祇園祭の日程は、明治時代の新政府による太陽暦の採用後変更を重ね、1877年(明治10年)に7月17日と24日に固定。京都三大祭の一つとして知られ、新聞や雑誌に掲載されることで全国的にも知られるようになったのです。
また、祇園祭の山鉾巡礼も近代に入ると変化が見られました。1912年(明治45年)には四条通が市電の走行のため拡幅され、1923年(大正12年)には山鉾連合会が組織化。しかし、1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)までの太平洋戦争の影響により、山鉾巡行は中止を余儀なくされ、終戦後の1953年(昭和28年)からは山鉾巡行が再開され、焼失した山鉾も次々と復活しました。
菊水鉾を皮切りに、綾傘鉾、蟷螂山、四条鉾などが復興し、平成時代に入ってからは大船鉾が復活。これらの復興は、祇園祭の伝統を次世代へ継承する重要なプロジェクトとなりました。
二十世紀後半の社会の変化は、祇園祭にも影響を与えました。1966年(昭和41年)には、前祭と後祭が統合される大きな変更があり、後祭の山鉾巡行が前祭に統合されました。また、巡行の先頭を行く長刀鉾に注連縄切りの神事が加えられ、担ぎ山には車輪が取り付けられ、引く形式に変更されました。さらに、24日には花笠巡行が始まるなど、新しい要素が加わったのです。
21世紀に入ってからは、伝統の蘇生と新しいまちづくりの中で祇園祭を再生しようとする動きが見られます。特に後祭の復興は、祇園祭の新たな発展を象徴する出来事となりました。これらの努力は、祇園祭が単なる年中行事ではなく、京都の文化と歴史を象徴する重要な祭りとしての地位を強固にしています。
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三条ありもとビル
「三条ありもとビル」は、京都市の中心部、歴史的な三条通りに位置するモダンな建築物です。連続するアーチと粗く削られたコンクリートの仕上げは、ビル自体が現代建築でありながら、三条通りの西洋風建築に対する敬意を示しています。特に、二層分の高さを持つアーケードは、街並みをダイナミックに切り取るような視覚的な効果を生み出しています。
明治19年創業の「有本商店」は、大正9年にこの地に3階建ての洋館を新築し、アールデコ様式のハイカラなデザインが特徴で、ショーウインドウには鏡が設置されていました。しかし、昭和43年の火災により建物は焼失してしまいました。この出来事は、地域にとって大きな損失でしたが、幸いにも昭和46年には鉄骨3階建ての新しい店舗が建設され、新たな歴史の始まりとなりました。新店舗は広い前庭に芝が張られ、オープンでモダンな外観が特徴的でした。
その後、平成元年にはさらなる大きな変化が訪れます。三条通りに沿って、2階までの大きなアーチ型の通路を備えた5階建てのテナントビルと駐車場へと建て替えられたのです。この新たなビルは、そのモダンなデザインと三条通りの歴史的景観に対する敬意を表した建築スタイルで、第二回京都市景観賞に入選しました。
現在の三条ありもとビルには、アパレルショップやメガネショップ、ジャズクラブなどがテナントとして入居しており、建物に限らない伝統と文化を守っていくビルとしてその存在感を発揮し続けています。
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