三条通デジタルマップ

竣工時の日本銀行京都出張所(支店) 明治時代 公益財団法人古代学協会蔵
竣工時の日本銀行京都出張所(支店) 明治時代 公益財団法人古代学協会蔵
明治〜大正時代の三条通

日本銀行京都支店

明治維新後、京都では次々と再生の手が打たれ、こうした活動に伴って経済活動も活発になってきました。そこで日本の中央銀行である日本銀行に働きかけ、支店の誘致を実施。明治27年(1894)に東洞院通御池上ル船屋町16番地に日本銀行京都出張所が設置され、明治39年(1906)に高倉通三条上ルへ赤レンガの近代洋風建築が竣工し、日本銀行京都出張所(のちに支店)はその建物へ移転となりました。

日本銀行京都支店(現京都文化博物館別館)は、三条通りの象徴的な建築物で、その外観は東京駅などを手がけた明治期の代表的な建築家、辰野金吾とその弟子・長野字平治によって設計されました。辰野金吾らの設計によるこの建物は、近代的機能をもった施設としてこの地域に新しい息吹をもたらしたのです。


この建物は「辰野式」と呼ばれるスタイルを特徴とし、レンガ壁に御影石のストライプが特徴的です。これは烏丸通の旧みずほ銀行(旧第一勧業銀行京都支店)と共通する要素です。


外観は三層構成で、三条通に面した正面は左右対称のデザインとなっています。東西にある青銅の搭屋が外観の対称性を強調し、屋根は黒いスレート(粘板岩)が使用され、ドーマー窓は内部空間に光を取り入れる機能を持っています。



建物のデザインは、様々な時代や場所の様式が混ざり合った19世紀の折衷主義建築の特徴を持ちます。外壁から突き出た壁、12~15世紀のゴシック建築の影響を受けた外壁の凹凸や垂直性、14~16世紀のルネサンス様式の装飾、インドサラセン様式の引用などが見られ、これらは建物にダイナミックで動的な印象を与えています。


隣接する本館建物の高さや壁面のストライプ、西側のマンションの壁面が三条通から後退している構造は、本建物との連続性を意識したもので、本建物が地域の景観形成の核となっていることを示しています。

営業時の日本銀行京都支店 昭和時代か 公益財団法人古代学協会蔵

営業時の日本銀行京都支店(営業室)昭和時代か 公益財団法人古代学協会蔵

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第一銀行京都支店 明治〜大正期 出典:京の記憶アーカイブ
第一銀行京都支店 明治〜大正期 出典:京の記憶アーカイブ
明治〜大正時代の三条通

明治以降の三条通の歴史(旧:第一銀行京都支店)


第一銀行京都支店 増築後の建物 昭和32年(1957)撮影 出典:京の記憶アーカイブ


江戸時代、三条大橋は東海道の終着点として重要でしたが、事実上の終着点は三条東洞院付近で、ここは京都で最も活気ある場所でした。明治時代に入ると、三条通はさらに発展し、銀行、電話局、新聞社、商店などの金融・情報・流通の拠点が建設されました。これらの多くは洋風建築で、三条通の文明開化の象徴となりました。



主な洋風建築には、明治5年(1872)に建設された西京電信局、京都最初の図書館と言える集書会社、明治12年(1879)年に開設された竹原銀行、大阪朝日新聞京都支局などがあります。明治39年(1906)には日本銀行京都支店(現・京都府京都文化博物館別館)が、そして旧第一銀行京都支店(旧・みずほ銀行京都中央支店)が建設されました。


設計者は辰野金吾と葛西萬司で、彼らの作品は「辰野式」と呼ばれるスタイルで知られています。このスタイルはレンガの外壁に御影石のストライプが特徴で、ルネサンス風のデザインが採用されていました。


大正8年(1919)に建物が西側に増築され、平成15年(2003)には建物が鉄筋コンクリート造で建て替えられて、外観はかつてのデザインを再現しています。


この時期に建設された洋風建築は、三条通を京都の情報・金融・商業の中心地として発展させました。三条通の歴史的な街並みは昭和初期頃までの建設によって形成され、現在もその影響が色濃く残っています。

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明治〜大正時代の三条通

三条通の近代建築と景観まちづくり(日本生命京都支店)

従来、日本の文化財保存は「凍結保存」的な傾向が強く、「活用」よりも「保存」が重視されてきました。重要文化財に指定された建物に手を加えることは難しいという印象がありますが、近年では煉瓦造や鉄骨・鉄筋コンクリート造の近代建築に対して、修復や改修を行いながらの活用が進み、1996年からは、文化財の活用促進のため登録有形文化財制度が導入されました。


その中で、三条通の近代建築は、最新の動向を先取りする形ですでに様々な方法で保存され、積極的に活用されています。


多くの人通りと観光客の流れがあり、京都市は「三条通界わい景観整備地区界わい景観整備計画」を策定し、新築の建物に対して特定のデザイン規制を設けることで、このエリアの特色を保つ努力をしています。


その代表例の一つが日本生命京都支店です。1914年(大正3年)に辰野・片岡建築事務所によって設計されたこの建物は、国の登録有形文化財に指定されています。1983年には鉄筋コンクリート造に建て替えられましたが、東側の一部が当時の状態で保存されており、石貼りを多用したデザインやセセッション様式の影響が見られる点が「辰野式」とは異なる特徴を持っています。


活気と賑わいがあると同時に一定の規制もなされている三条通は、近代建築の保存活用に関する理想的な状態にあると言えます。現在の状態を維持し、これからも活用していくことが、三条通の魅力を高め、文化的価値を維持するために重要でしょう。

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家辺徳時計店 昭和33年(1958)撮影 出典:京の記憶アーカイブ
家辺徳時計店 昭和33年(1958)撮影 出典:京の記憶アーカイブ
明治〜大正時代の三条通

三条通の近代建築と景観まちづくり(家邊時計店)

京都の三条通には、独特の近代建築群とその周辺の景観まちづくりが見られます。特に、家邊時計店を中心とした地域は、近代建築とリノベーションされた建物が調和を成す興味深い事例です。


三条通の面白さは、煉瓦造の洋風建築とその間にある改装された町家や鉄筋コンクリート造の建物が混在している点にあります。こうした多様な建物が建ち並ぶ中で、景観の調和を図るのは容易ではありません。

1890年に建てられた家邊時計店は、三条通にある最古の洋風建築で、ドイツから輸入された建材を使用し、ルネサンス風のデザインが施されています。建物両側にあるコーナーストーン、窓上に載る三角形のペディメントなど、全体としてルネサンス風のデザインでまとめられています。

この歴史的な建物の周囲では、近年いくつかの建物がリノベーションされ、新しいデザインを披露しています。その一つは、元々木造の町家であったMSPC PRODUCT sort KYOTO STOREが入る建物で、白を基調としたモダンなデザインが特徴です。

また、隣接するNOMBREIMPAIR 京都店やI'atelier dusavon 京都路面店も同様にリノベーションされ、木サッシを用いた白基調のデザインが採用されています。これらのリノベーションにより、家邊徳時計店を含む周辺の建物が統一されたモダンなデザインで引き立てられています。

しかし、これらの新しいデザインは、伝統的な木造の町家や鉄筋コンクリート造、煉瓦造の近代建築から派生したものではなく、周辺の建物をリノベーションすることで、近代建築の価値を際立たせる手法として機能しています。三条通でのこの現象は、新しい調和の取り方として注目されます。

これらの店舗の建築家やデザイナーはそれぞれ異なり、白いモダンなデザインで木サッシを用いたのは偶然とのことですが、これは新たなデザインの方向性として意識的に採用される価値があるでしょう。

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明治〜大正時代の三条通

SACRA

SACRA(旧不動貯金銀行京都支店)は、1916年(大正5年)に建築された建物です。三条通に多くあった銀行建築のひとつですが、ほぼそのままの形で民間により保存・活用されている珍しい事例で、国の登録有形文化財にも指定されています。


外観からは想像し難いですが、木造の骨組みとレンガの壁下地の上に、タイルや石材が貼り付けられた構造となっています。建物の全体的な構成としては歴史様式を継承していると言えますが、各部のデザインは直線や円を用いた幾何学的なデザインで統一されています。


これは19世紀末にドイツやオーストリアで起こった芸術革新運動である「セセッション様式」の影響によるもので、大正期に日本でも流行したものです。


不動貯金銀行は、明治33年に実業家・牧野元次郎(まきのもとじろう)が設立した銀行で、日本貯蓄銀行などを経て現在はりそな銀行となっています。定期積金を提唱したのも牧野で、1901年に定期積金「三年貯金」(後の「ニコニコ貯金」)で普及し全国規模で最大手の貯蓄銀行になりました。


「家は焼けても貯金は焼けぬ」、「蔵は焼けても貯金は焼けぬ」などのキャッチコピーの広告を新聞に出して発展し、昭和10年代には五大銀行にも数えられるほどに成長しました。

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明治〜大正時代の三条通

中京郵便局

中京郵便局(中京郵便局旧庁舎)は1902年(明治35年)に建築された建物で、京都市登録文化財に認定されています。1871年(明治4年)に郵便制度の発足時に拠点として東京・京都・大阪に設置された3つの郵便役所のうちの一つ「西京郵便役所(さいきょうゆうびんやくしょ)」として開設され、1875年(明治8年)には「京都郵便局」に、1887年(明治20年)の京都電局との合併時には「京都郵便電言局」に、1903年(明治36年)の京都電話交換局との合併時には再び「京都郵便局」と改称されました。そして、1902年(明治35年)8月に現在の局舎を新設しています。


ギリシャ時代からのヨーロッパの伝統である、基壇、胴部、頂部といった三層構成を持ち、美しいプロポーションが与えられた、正統派に近い西洋建築です。柱が省略され、壁面がレンガで埋められている点などから「イギリス風ルネサンス様式」といえますが、バロック的ダイナミックさを持つ渦巻き模様があったり、窓上部のペディメントが半円形になっているなど、処々にオリジナリティも感じられます。


1978年(昭和53年)、日本初の外壁と屋根のみを残した「外壁保存」という手法で、内部は全く新しい鉄筋コンクリート造に建て替えられました。賛否両論ありますが、外観からはそれに気づかないほど元の意匠が尊重されています。

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明治〜大正時代の三条通

文椿ビルヂング

文椿ビルヂング(旧西村貿易店社屋)は1920年(大正9年)に建築された建物で、国の登録有形文化財に認定されています。当初は貿易会社の社屋として使われ、その後繊維問屋の手に渡り、戦後間もなくはアメリカの文化施設としても使われていました。その後、内装業社や呉服商社として使われていた物件を2004年に久和幸司建築設計事務所の手により商業施設として再生したのが「文椿ビルヂング」です。


17世紀のフランスで考案された「マンザード屋根」と呼ばれる腰折れ屋根と、19世紀末にドイツやオーストリアで起こった「セセッション様式」という、大正期の日本で流行していた形態が採用されています。西洋伝統の三層構成を持ちながらも、タイル張りの平滑な外壁や、上下の窓間にある縦のストライブ模様、玄関に付けられた八角形断面を半割した片蓋柱の幾何学模様などに、古典からの脱却を図る「セッション様式」を見ることができます。


2024年現在は、伝統工芸品や着物屋、カフェやレトロパブなど、8つの店舗がテナントとして入居して運営しています。歴史ある建物を「保存」という消極的な守り方ではなく、積極的にビジネスとして「活用」しているモデルケースの一つとなっています。

(上)マンサード屋根とドーマー窓(左下)御興金具職人特注のエンブレム(右下)八角断面の片蓋柱

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明治〜大正時代の三条通

分銅屋足袋


分銅屋足袋は界わい景観建造物の一つで、表側に店舗棟、裏側に住居棟がある職住一致の「表屋づくり」と言われる形式の町屋です。1864年創業の足袋(たび)の老舗ですが、以前は漢方薬店で、その名残から量り売り用の「分銅」が屋号として使われています。また、江戸時代の大火のあと再建され、防火のため全体が黒い漆喰で塗り固められ、クラシックな黒塗り土蔵の店構えは、三条通でもひと際目を引く存在となっています。


軒下の袖うだつは隣家にも存在し、当時の町内の防火意識がうかがえるとともに、連続した特徴ある景観を形成しています。また、雨風から守るため看板に屋根がかかった大胆なデザインは、京都市内でも数少なく、商建築らしさを示しています。


分銅屋では、店の奥で生地を裁断し、留具の「こはぜ」を手縫いで生地に付け、ミシンで縫製しています。白足袋のほか、京友禅の足袋なども製造・販売しており、品質にこだわる役者や狂言役者、日本舞踊家は「指先までフィットする」と分銅屋の足袋を愛用しているそうです。


三条通りで、その際立った黒い漆喰塗りの店構えは、近代京都の町屋建築の名残をとどめ、近代建築の歴史を垣間見える場所ともなっています。

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明治〜大正時代の三条通

日昇別荘

日昇別荘は、江戸時代の豪商屋敷が戦後に日本旅館として転用された建物で、東海道の始点として旅籠が多かった時代を想起させられます。長く続く塀、一文字河原による軒、高さがそろった格子の出窓、庇など、幾層にも違う要素が水平ラインを強調している様は、静かに町並みの連続性を担保している存在です。


蛤御紋の変・鳥羽伏見の戦いなど、幕末での京都の大火の被害から逃れた貴重な建物であり、京都の中心部・三条通の三条界隈景観整備地区において「伝統的様式木造商家」の指定を受けており、文化的にも重要な建物・庭園となっています。


日昇別荘の所在地は、桃山時代の陶工・商人として有名な有来新兵衛の屋敷地でした。また、敷地内には江戸時代の蔵や大正時代の茶室もあり、この土地が歩んできた長い歴史を実感できます。


日昇別荘の面する三条通は、昭和三十年代頃は、祇園祭の山鉾が通っていました。当時、日昇別荘の二階と山鉾の高さが同じだったので、格子を外して観覧して、粽を投げ入れてもらったものです。


今も昔も、お客様をお迎えするにあたって、京都らしい季節にあったしつらえを施すことを大切にしています。待合室や客室などの絵画や花、お料理の上掛けや服装にも季節感を出すようにしています。

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明治〜大正時代の三条通

ゐど寿屋(居戸寿屋)

ゐど寿屋(居戸寿屋)は界わい景観建造物の一つで、看板、暖簾、側窓に付けられた鋳物など配慮された店舗意匠が伝統的町家とマッチしている建築です。隣接する町家風店舗に見られるように、核となる秀逸な建物は周囲に影響を与え、町並み・景観に相乗効果をもたらしていることが分かります。よく見ると、ここだけ敷地が道路面より下がっていますが、その理由は分かっていません。


また、看板や暖簾や側面窓の鋳物意匠などの店舗意匠が「京都景観優良意匠屋外広告物」に指定されています。さらに、お店の東北角にある「三条道しるべ」は「京都景観賞公共広告物デザイン賞」を受賞しています。


ゐど寿屋は1906年(明治39年)創業で、1945年(昭和20年)に三条通へ越してきました。京都の”まち”のつくりは、昔から「両側町」と言い、通りをはさんだ向かい同士が結びつき合って仲良くやってきています。


三条通界隈もそんな場所の一つで、三条通は商業地、隣り合った姉小路通は住宅地としての役割を果たしています。


お店では、和装小物の製造から販売まで手がけ、かわいらしい宝尽くし柄やポップなデザインなど、オリジナルのポーチやバッグが揃っています。職人の得意技を活かせる商品作りをしながら、京都にいる多くの職人との繋がりを大事にして現在も営業を続けています。

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明治〜大正時代の三条通

西村吉象堂

西村吉象堂は、1924年(大正13年)から漆器・工芸品を扱うお店で、1991年(平成3年)の店の新築を機にギャラリー吉象堂を併設し、幅広い商品を販売しています。


幕末の慶応年間に建てられた町家で、職住一体の利用が続いています。1991年に改修された際には、壁や軒裏を漆喰で塗り込めた防火対策が施され、現在の形となりました。店舗中央に残る地下倉庫も、火事の際に大切なものを避難させるためのものだったと考えられています。


昭和50年代、三条通は静かな通りでしたが、平成になって「三条通界わい景観整備地区」に指定され、三条通歩車共存道路が完成し、新商店の出店等、もともと歴史がある三条通に賑わいが生まれました。しかし、「職住共存」のまちとして、ただ賑やかになれば良いというわけではなく「暮らしやすさ」「商いのしやすさ」を大切にしたまちづくりが進んでいます。そのため、「三条通の景観と品格を守り」「にぎわいとコミュニティを創成する」ことを目標としており、西村吉象堂も三条通でその役割を果たしています。


併設されたギャラリーでは水墨画展、絵画展、銅版画展など、様々なタイプの展示が開催されており、京都の文化の交流拠点としても存在感を発揮しています。


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明治〜大正時代の三条通

近代建築の歴史的文化的価値(三条通り)


西村総左衛門貿易店  出典:京の記憶アーカイブ


1860年代から1970年代にかけて建設された日本の近代建築は、ヨーロッパから導入された煉瓦造、鉄骨造、鉄筋コンクリート造などの技術を特徴としています。日本が近代化を迎えてから150年、第二次世界大戦終了からも70年が経過し、近代建築の歴史的価値が再評価されています。近代建築の中でも、煉瓦造の建物は1960年代から重要文化財に指定されており、2000年代には迎賓館(旧赤坂離宮)が国宝に指定されました。


このほか、鉄筋コンクリート造のモダニズム建築も重要文化財に指定される例が増えています。国の登録有形文化財としての近代建築は、2015年には登録件数が1万件を突破しました。赤煉瓦ネットワークという組織が1991年に設立され、煉瓦造の建物の保存や活用に関する活動を行っています。

また、2012年の東京駅の修復・復元は、多くの人々に近代建築への関心を高めさせました。国内各地で開催される近代建築の見学ツアーや関連書籍の出版も、一般の関心を高めています。


しかし、近代建築は都市部の経済的な原理の影響を受けやすく、耐震基準に合わないまま建っていることや材料の劣化が早いこと、歴史的文化的価値が見出されにくいことから、解体や建て替えの対象となりやすい傾向があります。


特に、1920年代から70年代に建設された鉄骨造や鉄筋コンクリート造のモダニズム建築は、装飾が少なくビルのように見えるため、その価値が社会に受け入れられにくい状況があります。


京都の三条通における近代建築は、煉瓦造が多く、その歴史的特徴を備えており、近代建築が京都の近代化の歴史を象徴して、京都ならではの歴史的背景を持ちながら、地域のアイデンティティを示しています。



煉瓦造は現行の建築基準法では新たに建造するのが難しいため、現存する煉瓦造建築は希少性が高くなっています。これほど煉瓦造の近代建築が集結・保存されているのは全国的にも珍しく、その歴史的文化的価値は極めて高いと言えます。

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1872年(明治5年)に建立したと伝わる望火楼(日彰校)、京都市学校歴史博物館蔵
1872年(明治5年)に建立したと伝わる望火楼(日彰校)、京都市学校歴史博物館蔵
明治〜大正時代の三条通

日彰校

現在の高倉小学校の前身の1つである日彰校は、三条東洞院の教諭所の地に創設されました。日彰小学校は、1869年(明治2年)6月20日に下京四番組小学校として東洞院三条に開校し、1872年(明治5年)3月に現高倉小学校がある元松山藩邸の場所に移りました。


校名は、当時の京都府知事槇村正直氏により「君子の道は闇然として日に章かなり」という中庸という書物の中の箴言から命名されました。これは、「徳が日に彰かになる」という意義深い校名であり、以後「日彰学区」と呼ぶようになりました。

日彰校の報時鼓、京都市学校歴史博物館蔵

望火楼に備えられたと言われる、地域住民に時間を知らせるための太鼓です。この資料が示すように、日彰校もそのうちの一つである番組小学校は、地域のコミュニティセンターとしても機能していました。

町組仕法書書写(日彰校)、京都市学校歴史博物館蔵

日彰校には、「番組」、さらには後の「学区」の起源となった通達「町組仕法書」の貴重な写しが残されていました。

日彰校教育要覧(地域に配布された沿革史など)1916年(大正5年)、京都市学校歴史博物館蔵)

日彰校の教育実践の様子、及び1916年(大正5年)当時の学区の状況などが記録された資料です。

日彰校の石盤及び石盤箱 1880年(明治13年)(推定)、京都市学校歴史博物館蔵

ノートが普及する以前である明治時代に、子どもたちに使用された主要な筆記具であったのが、この石盤でした。また日彰校には、この石盤をしまうための大変貴重な箱も残されていました。

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立誠校校舎 明治中頃、京都市学校歴史博物館蔵
立誠校校舎 明治中頃、京都市学校歴史博物館蔵
明治〜大正時代の三条通

立誠校

立誠校は高倉小学校の前身の1つで、現在は校舎が立誠ガーデンヒューリック京都に生まれ変わっており、もともと三条河原町通下ルに創設されたと伝わっています。


立誠校が存在していた現在の立誠学区は、中京区で最も東南部に位置し、東は鴨川、西は寺町通の東側、北は三条通の北側、南は四条通の北側に囲まれているなど、市内でも最も賑やかな繁華街を有する区域です。


立誠学区という学区の名称は、明治5年の下京六区から下京六組、下京第六学区を経て、昭和4年に名付けられました。小学校は明治7年(1874年)、三条と河原町通に面していたところから「三川校」と名付けられましたが、明治10年(1877年)に「立誠校」と改称されました。


立誠という名前の由来は、当時の京都府知事槇村正直氏によって論語の「立誠而居敬」から命名されたとされています。「立誠」とは「人に対して親切にして欺かぬこと」ということであり、人を育てていく意味で意義深い言葉となっています。


現在の学区は24町より成り立っていますが、人口減少、少子化が著しく、立誠小学校は閉校となり、高倉小学校に統合されています。


歴史的には、豊臣秀吉が行った都市改造の中で誓願寺や歓喜光寺をはじめとする大刹が集められ寺の町が作られ、角倉了以の高瀬川開削による水運の発達と共に材木、木屋、米屋などの商家が発展し、延宝2年(1674年)には先斗町が出現しました。


また、幕末維新の舞台となり、池田屋跡,海援隊屯所跡、土佐藩屋敷跡,坂本龍馬の暗殺された近江屋跡など数多くの史跡が残されています。

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1918年(大正7年)頃の生祥校の写真、京都市学校歴史博物館蔵
1918年(大正7年)頃の生祥校の写真、京都市学校歴史博物館蔵
明治〜大正時代の三条通

生祥校

生祥校が存在していた現在の生祥学区は、北は三条通、南は四条通,東は寺町通、西は富小路通、柳馬場通にわたる元学区です。

江戸時代は下古京の南良組の新シ町と、三町組の新シ町でした。


名称は明治5年(1872年)の下京五区から明治12年(1879年)に下京五組となり、その後、明治25年(1892年)の下京五学区を経て、昭和4年(1929年)に「生祥学区」となりました。昭和17年に京都市で学区制が実質的に廃止され、一部変更はありましたが現在も地域の単位となっています。


小学校は富小路六角下る骨屋之町に建営され、明治5年(1872年)に学校の地が南良組の新シ町西雲組の中に位置したところから「西雲校」と名付けられ、同9年(1876年)に「生祥校」と改名されました。


この歴史ある学区には、「弁慶石町」という変わった名前の町もあります。一説によると、武蔵坊弁慶が常に腰掛けて休んだ大石(弁慶石)が洪水で流され、三条東京極に漂着したという伝承が町名の由来になったとのこと。この他様々な伝説のある弁慶石は、今でも弁慶石町にひっそりと存在しています。


下京区五番組小学校会社等に関する決算報告 1887年(明治20年)8月、京都市学校歴史博物館蔵

小学校会社とは、その会社で稼いだお金をつかって、番組小学校の運営を助けようと結成された組織のことです。その意味で、地域住民と番組小学校の深い関係を象徴する集まりでもあったと言えます。

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(左)昭和初期の明倫校校門、京都市学校歴史博物館蔵 (右)新たに1931年(昭和6年)に改築した鉄筋コンクリート校舎の写真(現在は元校舎が京都芸術センターとして活用されている)、京都市学校歴史博物館蔵
(左)昭和初期の明倫校校門、京都市学校歴史博物館蔵 (右)新たに1931年(昭和6年)に改築した鉄筋コンクリート校舎の写真(現在は元校舎が京都芸術センターとして活用されている)、京都市学校歴史博物館蔵
明治〜大正時代の三条通

明倫校

1869年(明治2年)に下京三番組小学校として開校した明倫小学校の名称は、石門心学の心学道場「明倫舎」を校舎にあてたことに由来します。占出山町・錦小路通りに面した正門がありましたが、1875年(明治8年)には山伏山町の土地を購入し、室町通りに面して正門を構えました。その後も手洗水町の土地などを購入し、1927年(昭和2年)に現在のような敷地となりました。そして、1931年(昭和6年)には大改築を経て現在の校舎となりました。

当時では最先端の鉄骨建築は、京都市営繕課によるデザインで、赤みを帯びたクリーム色の外壁とスぺイン風屋根瓦のオレンジ色、雨樋の緑青色が温かみのある雰囲気を醸し出しています。


明倫学区には祇園祭の山鉾町の多くが含まれていることもあり、建物の正面は祇園祭の山鉾を模したといわれています。


趣のある講堂や、格天井の見事な78畳の大広間、屋上に建つ和室などの特徴的な部屋の他にも、階段の手すりや外壁の装飾、丸窓など、そこかしこに見所があります。また、北館には荷運びや避難経路としても実用的なスロープが採用されています。


1993年(平成5年)に124年の歴史をもって閉校しましたが、京都芸術センター開設に伴う改修は、その姿をほぼそのまま残して実施されました。講堂・大広間・和室「明倫」、制作室として使用している教室などは、イべント開放時しか閲覧できませんが、図書室や喫茶スぺース、廊下を巡るだけでも、明倫小学校の雰囲気を充分に楽しめます。


小学校建営有志金の証書 1875年(明治8年)8月30日、京都市学校歴史博物館蔵

この証書からは、他の番組小学校と同じく、明倫校においても、地域の人が学校運営のために多大な支援をしていた事実が伺えます。

本校教育要覧 1932年(昭和7年)、京都市学校歴史博物館蔵

明倫校では、子どもの自由を重んじる当時最先端の「新教育」が追究されました。この資料は、その足跡を記録しています。

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明治〜大正時代の三条通

道路元標

「道路元標」は、日本全国の道路距離を示す基準点の一つで、これは車で移動中によく見かける「京都まで○○km」という案内標識の基点を示しています。

1920年(大正9年)に施行された旧道路法に基づき、各市町村距離測定の基準として「道路元標」が設置され、京都市における道路元標は、同年の京都府告示第150号により「下京区三条通烏丸通交差点」と定められました。

つまり、三条通のこの地点が京都市内の距離測定の出発点とされていたのです。

明治時代までは、京都の基準地は三条大橋でしたが、なぜ変更されたのかは不明です。

しかし、大正9年の内務省告示第28号によると、国道2号線は大津市から京都市(烏丸通~七条通~大宮通)を経由し大阪市に至るルートとなっており、三条烏丸がこの重要な交差点であったために基準地に選ばれた可能性があります。

また、京都の中心とされる六角堂の「へそ石」に近いことも選定の理由の一つかもしれません。

この石碑は、下半分が上半分よりも白くなっており、一時期は地中に埋まっていたことを示唆しています。

1920年頃に設置されて以来、さまざまな歴史的出来事を見守ってきたこの元標は、京都三条通の歴史の重要な目撃者と言えます。

現在、京都市の基準地は「京都市役所」となっており、「京都まで○○km」という標識は京都市役所までの距離を指しています。

しかし、歴史的な意味合いを考慮すると、三条通烏丸通交差点にあるこの道路元標は、京都の歴史と文化を理解する上で非常に重要な存在です。

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「法衣仕様帖」1835年(天保6年)頃 株式会社千總所蔵
「法衣仕様帖」1835年(天保6年)頃 株式会社千總所蔵
明治〜大正時代の三条通

千總

千總(ちそう)は、京都で長く商いを続けており、現在は京友禅の老舗として知られています。

その当主は代々、千切屋總(惣)左衛門を名乗り、三条室町地域を拠点にしてきました。


この家系は、春日大社の若宮おん祭に「千切台」と呼ばれる威儀物を奉納した宮大工の子孫とされ、屋号の「千切屋」もここから名付けられました。

千切屋は1555年(弘治元年)に、初代貞喜が法衣業を始めたことを起源とします。

最盛期には、三条衣棚町を中心に100軒以上の店舗を構えるほど栄えました。


千切屋惣左衛門は、金襴や法衣の商いを行い、東本願寺の御用を務め、法衣装束や打敷などを提供しました。


天保年間(1830〜1844年)に作成された「法衣仕様帖」は、大谷家(現在の真宗大谷派東本願寺)からの注文品の仕様をまとめた冊子で、御用装束師の仕事の詳細を伝える重要な文書です。


また、千切屋の当主は蹴鞠や和歌などの文芸に精通し、有職故実に則った適切な装束や調度品を納めました。


幕末期には赤穂藩森家の御用達として武家装束の調進を行い、その活動は「鶴之丸紋本」などの資料から窺えます。


「蹴鞠免状(布羅上)」 1720年(享保5年)株式会社千總所蔵

「鶴之丸紋本」1859年(安政6年)株式会社千總所蔵


明治時代に入ると、東京遷都の影響を受け、千切屋惣左衛門は法衣業から刺繍業・友禅業へと商売の主軸をシフトし、西村總左衛門を名乗り始めます。

屏風やカーテンなどの室内調度品や、友禅染の着物など多様な製品を発表しました。


他方で、染織図案の刷新や化学染料の活用など染織技法の改良に取り組み、明治26年には「千總友禅」と称されるようになりました。


こうした製品は国内外で評価され、例えば画家今尾景年がデザインした「刺繍額〈水中群禽図〉」は1900年パリ万国博覧会で大賞を獲得し、友禅裂「早稲田の薫」は三井呉服店(現 三越)で大々的に販売された一方で、「窓掛」はパリの商会から注文を受けています。


大正8年には、国内向け製品を扱う千總商店と海外向けの西村貿易店に分かれ、昭和初期までに東京や大阪、上海など国内外に拠点を広げました。


この長い歴史を持つ千總は、京都の文化と伝統を代表する存在のひとつとして、今もなお多くの人々に知られています。


写真「刺繍額〈水中群禽図〉」1900年(明治33年)頃 株式会社千總所蔵

友禅裂「早稲田の薫」1905年(明治38年)頃 株式会社千總所蔵

写真「窓掛」明治40年代頃 株式会社千總所蔵

写真「西村總左衛門店」明治時代 株式会社千總所蔵

写真「西村貿易店社員(西村貿易店東京支店前にて)」大正時代 株式会社千總所蔵

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