図 上杉本洛中洛外図屏風・右隻に描かれた三条通(米沢市上杉博物館所蔵)
室町〜江戸時代の三条通
中世の三条
12世紀末に鎌倉幕府が登場して以降も、京都とその重要地である三条通は、政治的・文化的な中心地としての役割を維持し続けました。
鎌倉時代の三条大路周辺に関する詳細は多くは明らかではありませんが、貴族邸、庶民の家、そして武士の宿所が立ち並ぶ賑やかな通りであったことは確かです。
13世紀中葉に鎌倉幕府が滅び、建武の新政を経て南北朝の動乱が起きると、新たな武士政権である足利幕府が誕生しました。この幕府は通常「室町幕府」と呼ばれていますが、初期の将軍御所は下京の三条に存在しました。特に、足利尊氏の時代には三条坊門小路に御所が設けられ、後に等持寺として知られるようになりました。
義満の時代に幕府が上京に移された後も、下京の三条地域は歴史的な重要性を保ち、第4代将軍義持や第10代将軍義種がここに将軍御所を置きました。この地域には大名や武士の居館が集まり、三条通は京都の政治的中心の一部として機能し続けたのです。
戦国時代に描かれた「洛中洛外図屏風」は、当時の京都の様子を詳細に描いており、上京と下京がそれぞれ「惣構」と呼ばれる塀や堀に囲まれた独立した地域であったことを示しています。また、三条通は下京の北部を東西に横断する重要な道になっており、特に「上杉本洛中洛外図屏風」では三条通の北側において烏丸通と室町通の間に竹田瑞竹の邸宅が描かれています。瑞竹は当時の一流の医者で、彼の門前では診察を待つ人々が列をなしていました。
さらに、三条通と東洞院通の交差点の東北には華院が描かれており、これは室町時代前期に開かれた通玄寺の尼門跡として知られていたものです。通玄寺の塔頭寺院であった曇華院が有名になったため、全体がその名で呼ばれるようになりました。屏風に描かれた曇華院は、瓦ではなく貴族住宅風の板茸の屋根を持ち、尼寺らしい柔らかな風情を醸し出しています。
GoogleMapで見る室町〜江戸時代の三条通
曇華院
曇華院の起源は、第3代将軍・足利義満将軍によって高倉宮跡に建立された通玄寺まで遡ります。通玄寺は尼五山の一つとして、智泉聖通尼(ちせんしょうつう:第2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の夫人・紀良子(きのりょうし)の母)のために建立されました。義満将軍は寺に五百石の寺領を与え、その後、住持は将軍家の息女が務めるようになりました。
15世紀後半から16世紀にかけて、寺は何度か焼失しましたが、都度再建されました。江戸時代初期の1603年に再度焼失しましたが、後西天皇の皇女・大成聖安尼によって中興され、江戸時代中期の1707年に東山天皇から紫衣が贈られ、大聖寺・宝鏡寺と並ぶ特権を得ました。
なお、開基の智泉尼は寺敷地の東にあった曇華院で生活し、ここで亡くなったため、寺は「曇華院」と称されるようになりましたが、江戸時代を通じて歴代の住持は「通玄寺住持」を名乗っていました。
その後も度々焼失し、明治維新後に鹿王院(ろくおういん)の塔頭・瑞応院(ずいおういん)の土地を得て再興されました。
曇華とは三千年に一度花開くという優曇華(うどんげ)の花のことであり、花咲く時に聖王が出現すると言われています。
京都の7尼門跡寺院のうち、大聖寺門跡、宝鏡寺門跡に次ぎ、3番目に列せられ、山号は「瑞雲山」といいます。
GoogleMapで見る桃山陶器 志野 水鳥形水注 中京区中之町(三条せと物や町跡出土)京都市蔵
室町〜江戸時代の三条通
「三条せと物や町」
鳴海織部 凸形千鳥梅文平向付
中京区中之町(三条せと物や町跡出土)京都市蔵
青織部 四方形市松文筒向付
中京区中之町(三条せと物や町跡出土)京都市蔵
青織部 吊し柿文筒向付
京都市中京区中之町(三条せと物や町跡出土)京都市蔵
織部黒 茶碗
中京区中之町(三条せと物や町跡出土)京都市蔵
桃山時代には、それまでの日本工芸史上に見られない革新的な陶器「桃山陶器」が数多く生まれました。従来にはない色味の釉薬が使用されたり、筆を使った絵画的な文様が現れたりするなど、新しいスタイルの器が制作されました。特に、均整を欠いた歪んだ形状や多様な形の登場は、当時の人々にとって全く新しい体験だったことでしょう。
京都の三条通では、この「桃山陶器」を扱う店が多く存在していました。この地域は「せとものや町」と称され、弁慶石町、中之町、下白山町、福長町、油屋町から成り立っており、高取、唐津、備前、信楽、美濃など、日本各地の焼き物が数多く発見されています。
発掘された資料を詳細に調べると、店の裏で廃棄されたような状態で出土しており、窯道具や製品がくっついた状態で見つかることもあります。これらは、各地の窯から一括して運ばれ、店の目利きによって販売品とそうでない品に分けられていたと考えられています。こうして「桃山陶器」は、当時の大名や茶人など文化人の手に渡りました。
そして、近年「桃山陶器」は現代のアーティストたちからも注目されています。彼らは「桃山陶器」にインスピレーションを受け、新たな芸術作品を生み出しています。
このように、三条通に関わる「桃山陶器」の歴史は、現代においても多くの人々に影響を与え、新たな芸術の創造に寄与しているのです。
GoogleMapで見る平安城東西南北町並之図 江戸時代 17世紀中頃 古代学協会蔵(京都文化博物館寄託)
室町〜江戸時代の三条通
平安城東西南北町並之図
江戸時代の初め頃の街並みを表しています。
(曇華院(赤実線)せともの町(赤破線))
本図は江戸時代の京都を描いた図です。現存する江戸時代の都市図として最古といわれる「都記」を引き継ぎ、おおよそ1641年〜1652年頃の刊行と考えられています。
「曇華院」や「せともの町」がどこにあるかお気づきになりますか。
画面右側の「三條橋」から左に進むと「柳の下町」「べんけい石町」に続いてその名の記載があります。京都のほぼ中央、交通の大動脈たる東海道の延長上に位置していたことがわかります。
「曇華院」は「たんけゐん」と書かれた場所です。地図中で黒色は町屋等を表記したようですので、曇華院左側と下側が黒く塗りつぶされているところには、どうも町屋が進出していたと考えられます。
GoogleMapで見る曇華院跡出土資料(土人形) 江戸時代 京都文化博物館蔵
室町〜江戸時代の三条通
曇華院跡出土資料
曇華院跡出土資料(土人形)
江戸時代 京都文化博物館蔵
曇華院跡出土資料(焼瓦)
江戸時代 京都文化博物館蔵
写真は、曇華院跡から発掘された焼瓦と土人形の数々です。
室町時代後期に描かれた洛中洛外図をみると、曇華院は、通常の寺院のような瓦葺きではなく、貴族住宅風の板葺きで、格式ある尼寺の雰囲気が伝わってきます。ただ門内には瓦葺き建物も見られますので、出土品の瓦はこうした瓦の一部だったかもしれません。建立以降、幾度か火災を受け、蛤御門の変(禁門の変)の大火にもあったため、焼けた瓦も出土します。
なお、比較的大型の狐の土人形が発掘で大量に発見されていることから、寺地内に稲荷神を祀る堂などが存在したとみられます。
GoogleMapで見る陶磁器類 桃山〜江戸時代 京都文化博物館蔵
室町〜江戸時代の三条通
(タイトルなし)トピック:曇華院跡または町家の出土資料
元文小判 元文元年〜文政元年(1736〜1818) 京都文化博物館蔵
ヘラ状の骨製品 江戸時代 京都文化博物館蔵
左側は歯ブラシの柄と考えられる
土製小仏 江戸時代 慶安2年(1649) 京都文化博物館蔵
写真は、曇華院跡または町家から出土した小判や骨製品、陶磁器類、土製小仏の写真です。曇華院跡とされる場所からの出土品ですが、江戸時代の絵図からうかがわれるように、当地には町家も進出していたため、そうした人々の生活用品類も多数含まれています。
出土点数が多いのは、京都産のほか、美濃・瀬戸、唐津、備前、信楽、丹波などの生産とみられる陶磁器類です。他にも、粗塩を焼いて苦汁を取り精製塩をつくるための焼塩壷や玩具と考えられる土面子、近江(滋賀県)で作られた硯、骨製本、土製小仏、珍しい例では小判(元文売年~文政元年鋳造)など、実際に当時の人々が用いた品々が出土しています。
多様な産地の陶磁器のほか、堺湊(堺市西湊村)産の焼塩壷、近江の硯、両替商を通るたびに打たれるという刻印が17個ある小判などから、活発な流通の様子が見てとれます。
GoogleMapで見る改正京町絵図細見大成 江戸時代 天保二年(1832) 京都文化博物館蔵
室町〜江戸時代の三条通
江戸時代の曇華院界隈の様子
画像は、江戸時代の曇華院界隈の様子を示したものです。
絵図の中央に三条通や曇華院の名が見えます。ただし、曇華院(中央の灰色)をみると、三条通沿いは黄色に塗りつぶされていて、通りに面したところには町屋が形成されていたようです。
地誌や案内書において、東片町や木之下町には縄を売る店が多く、車屋町には車借、笹屋町や菱屋町には問屋、麦屋町と梅忠町には紙屋が多いなどの特徴も見られます。
町ごとの様子は様々で、思いのほか多種多様な職種の人々が住み、活気にあふれていたことがわかります。
しかし、曇華院にとっては困難の多い時代であったようです。1603年の焼失に始まり、1830年7月の京都大地震(文政の大地震)による筑地の破損など、災害とともに衰微し、その度に復興しますが、1864年の蛤御門の変(禁門の変)で焼失しました。明治維新後、現在地で再興を果たしています。
GoogleMapで見る天明八年京都大火図 江戸時代 あいおいニッセイ同和損保株式会社蔵
室町〜江戸時代の三条通
天明の大火
江戸時代の京都は、大規模な火災に幾度も見舞われた歴史があります。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸と異なり、京都の市民は「火の用心」を心がけていたものの、火災が全くなかったわけではありませんでした。京都の繁華な市街地で、時には広範囲に渡る大惨事が起こりました。
1986年、京都文化博物館の建設地である高倉通三条上ル東片町で発掘調査が行われました。その建設地は、平安時代末期の高倉宮以仁王の御所の跡地であり、室町時代から江戸時代にかけては通玄寺曇華院の境内だった場所です。
調査において、平安時代後期から江戸時代にかけての多くの遺構や遺物が発見されたのですが、特に注目されたのは、高倉通に沿った南北方向に二重になった大規模な堀です。江戸時代の無華院の東側の堀だと推測されており、下層の堀は幅約6メートル、深さ約3メートルで、延長約50メートルに及ぶ大規模なものでした。その堀の中には、火災の後始末で捨てられた大量の炭灰や遺物が満たされており、この地域が大火災に見舞われたことを示しています。
このような大火災の例としては、京都の歴史上最大規模の惨事の一つである天明の大火(1788年)や、それに先行する宝永の大火(1708年)が推定されています。これらの火災は、京都の市街地の大部分を焼き尽くすほどの規模であり、その影響は深刻でした。
GoogleMapで見る「どんどん焼け」で焼けて変色した瓦 曇華院跡出土 江戸時代 京都文化博物館蔵
室町〜江戸時代の三条通
蛤御門の変 どんどん焼け
蛤御門の変(禁門の変)は、元治元年(1864)に、長州藩と朝廷を固める会津藩、薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘です。京都御所(京都御苑)の蛤御門の付近で会戦したため、その名があります。
京都の中心地帯が激戦地になったため、市中はたちまち猛火に包まれました。その様子から、「どんどん焼け」と言われたのです。京都市街地における歴史的な大火災の一つであり、これにより三条通を含む京都の市街地の大半が壊滅的な被害を受けました。
京都文化博物館の建設地(平安時代末期の高倉宮以仁王の御所の跡地、室町時代から江戸時代にかけての通玄寺曇華院の境内)において1986年に実施された発掘調査において、江戸時代の大規模な堀で、炭灰や遺物によって埋め尽くされていたことが明らかになりました。
これは火災後の廃棄物が堀に投棄されたことを示しており、特に1864年の禁門の変(蛤御門の変)で発生した大火災「どんどん焼け」の痕跡と考えられます。
しかし、どんどん焼けによる京都の市街地の壊滅は、京都の近代史における重要な転換点ともなりました。
この大火災からの復興を経て、明治時代の三条通には西洋風建築が次々と建設され、京都のメインストリートとしての地位を確立しました。赤煉瓦に代表される西洋風建築は、この地域の景観と文化に新たな息吹をもたらしたのです。
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