三条大路の復元想定図
三条大路は高倉宮南側を東西に走る平安京の幹線道路です。高倉宮と三条大路の間には築地と側溝があり、道路と建物の間は区画されていました。
この絵は、考古学的調査成果や文献記録などをもとに、平安時代の三条大路の様子を想像したものです。道では人々や牛車が行き交い、この界隈ならでは高級官人などの姿も見ることができたでしょう。
三条通デジタルマップ
三条大路は高倉宮南側を東西に走る平安京の幹線道路です。高倉宮と三条大路の間には築地と側溝があり、道路と建物の間は区画されていました。
この絵は、考古学的調査成果や文献記録などをもとに、平安時代の三条大路の様子を想像したものです。道では人々や牛車が行き交い、この界隈ならでは高級官人などの姿も見ることができたでしょう。
現在の三条通は、平安京の三条大路に該当しています。三条大路は平安京の幹線道路の一つで、道幅は標準的な大路の規模である8丈(約23.9m)でした。現在の三条通の道幅は6〜7mほどですから、平安時代にはこの3倍から4倍の道幅をもつ大通りだったことになります。
三条大路の築地遺構
高倉宮の南側の大通りが三条大路です。
京都市内で行われる平安京の遺跡の発掘調査では、しばしば古い道路の跡が見つかりますが、平安時代の道路の痕跡は時が経つにつれて削られてしまうことが多く、路面がそのまま残っていることは稀です。
大抵の場合、道路の側溝の跡だけが見つかりますが、中京区烏丸通三条上ル西側の地域では、三条大路の北側にある4本の側溝が発見されました。これらは平安時代中期から後期、室町時代、桃山時代、江戸時代のものと推定され、当時の土地利用の変化を伺い知ることができます。
特に興味深いのは、中京区三条通東洞院東入ル北側で行われた発掘調査でした。この地域では、三条通沿いの土地の一部で約50cm盛り上がった均質な粘土層が見つかりました。南側には約15メートルの深い掘り込みがあり、これらは室町時代の三条大路の北側溝であることが判明しました。
また、側には平安時代の貴族邸宅の周囲にあった築地塀の基礎の一部と思われる遺構も見つかりました。これは平安京の遺跡において非常に珍しい発見で、この遺構の断面は特殊な脂で固められ、「剥ぎ取り標本」として京都文化博物館に展示されています。
平安京は朱雀大路を中心軸としてその東側を左京、西側を右京と言います。平安京左京の三条大路は、上級貴族の邸宅や庶民の住居が多く立ち並ぶ、京都でも特に繁華な地域でした。
ここでは、平安時代から鎌倉時代にかけて重要な邸宅や施設が営まれ、京都の発展に大きく寄与してきたのです。
東側から見ていきましょう。
三条大路と東京極大路の交差点の北東側、現在の三条通寺町東入ル北側には、桓武天皇の子、賀陽親王が建立した京極寺があり、その祭の際には田楽が賑わいを見せていました。
この地域は、庶民の家や商人が住む家が多く、活気に満ちた場所でした。
南側には、平安時代後期に崇徳天皇や鳥羽上皇の臨時の御所として使用された「三条京極第」がありました。また、待野門院藤原産子の御所もこの地域にありました。彼女は1145年(久安元年)にこの地で亡くなり、鳥羽法皇はその死を深く悼んだことが伝わっています。
東京極大路から東洞院大路にかけての三条大路沿いには、様々な平安時代の邸宅が存在しました。その中でも、後白河天皇の息子・以仁王の御所である高倉官が特筆されます。以仁王は1180年(治承4年)に平家に対して兵を挙げ、これが後の治承・寿永の内乱(源平合戦)の先駆けとなりました。
東洞院通から室町通にかけての三条通沿いには、三条東殿、三条西殿、そして三条南殿といった大規模な邸宅が建っていました。このうち三条東殿は平治の乱の端緒となった場所で、三条西殿は平安時代後期に院政を確立した白河法皇の主要な院御所だったところです。
東洞院通と烏丸通の間にある三条通の南側地域は、平安時代には民家が多く立ち並ぶ地域でしたが、そのさらに南側は六角堂頂法寺の境内として知られていました。
平安京内では東寺と西寺以外に寺院を建てることは一般に禁じられていましたが、小規模な辻堂についてはそのような厳しい規制はなく、庶民の間で人気を集める中で大きな寺院へと発展することがありました。六角堂も、平安時代中期にはすでに存在していたと推定されます。
ここをさらに西に進むと三条通大宮の西側には、北に神泉苑、南に四条後院が営まれていました。神泉苑は桓武天皇が平安京遷都とともに造営した離宮です。大規模な池をもつ華麗な庭園があり、天皇はしばしばここに行幸して遊宴や狩猟の楽しみにいそしんでいました。
その西隣には、北側の左京三条一坊五町には藤原氏一族の高等教育機関である勧学院が、南側の左京四条一坊八町には病院兼福祉施設の延命院がありました。また、三条通千本の東北側には、皇室出自の諸氏族のための高等教育機関である奨学院が存在していました。この地域には、平安京内の公的施設や教育機関が設けられました。
当時の東三条殿の所在地には現在、東三条殿の跡を示す石標が建てられています。
平治物語絵巻(模本)院中焼討ノ巻 狩野晴川院養信・作 東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
焼き討ちにあう三条東殿の場面が描かれています。
東洞院通から室町通にかけての三条通沿いには、三条東殿、三条西殿、そして三条南殿といった大規模な邸宅が建っていました。これらの邸宅は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての歴史的変動の舞台となりました。
まず、現在のNTTビルや新風館が立つ地域には三条東殿が存在しました。白河法皇によって建立され、後に鳥羽上皇や後白河上皇にも院御所として引き継がれた大邸宅でした。1159年(平治元年)には、藤原頼と源義朝によって三条東殿が焼き討ちされるという悲劇(平治の乱)が起こり、この出来事は『平治物語絵巻』に描かれています。
次に、烏丸通の西側に位置する烏丸ビルや京都伝統工芸館の近くにあったのが三条西殿です。これは、院政を確立した白河法皇の主要な院御所で、法皇がこの地で生涯を終えた場所です。
さらに、三条通烏丸西入ル南側にある現在のみずほ銀行京都中央支店、ホテルモントレ京都、三井ガーデンホテル京都三条のあたりには、三条南殿がありました。この邸宅は鳥羽法皇、上西門院統子内親王、七条院藤原殖子(後鳥羽天皇母)、後鳥羽上皇などの御所として使われていました。
発掘調査で見事な庭園の存在が明らかになり、その庭園の石や砂利は現在、三井ガーデンホテル京都三条の中庭で再利用されています。
月百姿 高倉月 長谷部信連 (つきの百姿) 月岡芳年(大蘇芳年)明治時代 国立国会図書館蔵
出典:国立国会図書館デジタルコレクション
以仁王(1151〜1180年)は、権中納言藤原公光(きんみつ)の妹・成子(なりこ)と後白河天皇との間に生まれました。以仁王は高倉宮(高倉御所)で平氏追討の令旨を発したことで知られます。この令旨には全国の武士や寺社が呼応します。
『吾妻鏡』によれば、その令旨は伊豆にいた源頼朝にも届き、彼が平氏追討に立ち上がることへつながっていきます。ただし、以仁王の企ては平氏に露見してしまいます。『平家物語』信連合戦には、以仁王は臣下の長谷部信連が奮闘する間に女装して逃れたと語られています。しかし王の決起は、平氏打倒の発火点となっていきました。
新古今和歌集に入集する歌人・式子内親王(1149〜1201年)は後白河天皇の皇女で、以仁王の妹にあたります。以仁王と同じく高倉宮で生まれたと考えられています。
彼女は「新古今和歌集」の女性歌人の代表で、かつ「千載和歌集」以下の勅撰集に多くの歌が収められ、家集に「式子内親王集」があります。また、藤原俊成から「古来風体抄」を献上されたことでも知られます。
忍ぶる恋を詠んだ「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の短歌が有名です。1159年(平治元年)、10歳の時に賀茂斎院になりましたが、後に病で退き、晩年は出家しました。
高倉宮の東側の道路が高倉小路です。発掘調査によって、平安京の地割が実際に確認できます。京都文化博物館本館建設に伴う調査で、高倉小路の路面と西側溝が発見されました。高倉小路に面して、その西側に営まれていたのが高倉宮ですから、発掘で発見された溝は、高倉宮と高倉小路との境でした。その溝の位置は、現在、高倉通側入口すぐ外の歩道に表示されています。
井戸底部の状況
高倉宮跡から出土した中国製白磁 平安時代 京都文化博物館蔵
築地や溝だけではなく、井戸や土坑、宅地の区画溝など、宅地の内部からも、当時の生活の痕跡が発掘されています。
中には、土師器や磁器などでいっぱいになった井戸などがあり、当時の人々がどうもこれら器類を大量に投入したようです。
写真は、井戸の検出状況ですが、出土品から当時の人々が使っていた器物の実際が判明します。出土した土器の年代から、この井戸が廃絶したのはおよそ12世紀と考えられます。
平安京右京の三条大路周辺は、嵯峨天皇によって創建されたと推定される朱雀院が位置していました。宇多上皇がこれを後院として大規模に拡張し、神泉苑と並ぶ平安京内で最大の施設となり、この朱雀院は醍醐天皇や朱雀上皇にも愛され、多くの行幸が行われました。
平安時代の前期と中期の右京は、特定の人物の名前を持つ建物が少ないことが多いですが、これは開発の遅れを意味するものではありません。実際、三条通付近では小規模な建物群が発掘されています。しかし、これらは上級貴族の邸宅ではなかったため、文献に名前が記録されていないのです。
右京三条には藤原良料の豪華な「西三条第」があり、美しい桜花で知られ「百花亭」と呼ばれていました。この邸宅は一時、皇太后藤原順子の御所となっており、2001年の発掘調査では、この邸宅跡と推定される大規模な建物群が発見されました。
平安時代後期になると、右京に貴族邸宅が建てられることは稀となり、多くの官人や庶民が左京へ移住しました。これにより、右京の土地は田畑へと変わっていき、「右京の衰退」と呼ばれる現象が生じました。
右京の西半部に湿地帯が多かったことが、居住地として避けられた一因とされています。そして、平安京右京の三条大路周辺には、多くの荘園が設けられました。これらには上級貴族、下級貴族、寺社など様々な権門が関わっていたとされています。特に藤原氏摂関家領の小泉庄は、最大の荘園であり、総面積は約81.5ヘクタールに及んでいました。
東三条殿 模型
サイズ:1/100制作年:昭和40(1965)年
監修:森蘊
設計:東京工業大学藤岡研究室
制作:京都科学
京都文化博物館蔵
東三条殿は、平安京左京三条三坊(現在の京都市中京区押小路通釜座西北角付近)にて南北を二条大路と押小路、東西を西洞院大路と町尻小路に挟まれた場所に建てられた平安時代の邸宅です。藤原良房(804〜872年)が創設し、摂関家嫡流に伝領され、藤原兼家(929〜990年)は東三条殿と称されました。
兼家の娘で、一条天皇(980〜1011年)の母であった詮子(961〜1001年)は、初めて女院号を与えられ、居住地に因み東三条院と名乗りました。1005年(寛弘2年)の内裏焼亡により、一条天皇の里内裏として用いられましたが、1166年(仁安元年)に焼失してしまいました。
当時の邸宅の様式、いわゆる寝殿造りの代表例として知られています。文献などの情報が比較的多い東三条殿に比べて、他の邸宅の情報は少なく、正確な姿を知ることは困難ですが、類似した様式の邸宅が文博界隈には多数営まれていたとみられます。高倉宮もそんな邸宅の一つでした。
三条大路は平安京の中心部に限らず、その外側にも延長されていました。京都の道路が京外へ伸びるとき、それは「刺」と呼ばれ、三条大路の場合は外側への延長部分は「三条大路末」「三条末路」と表されていました。特に、平安京の東側にある三条大路末は、鴨川河原や鴨川に直接つながっていました。
16世紀になって三条大橋が架けられる前、平安時代にこの場所に橋があったかは確かではありません。通常の鴨川は水量が少なく、橋がなくても渡ることができましたが、雨が降ると鴨川は急に増水し、「暴れ川」として知られるようになりました。そのため、増水した鴨川に牛車で入ってしまい、命を落とした僧侶の悲しいエピソードもあります。
そして、三条大路末の重要性は、東海道への接続にありました。平安時代前期には東海道は平安京の南を通っていましたが、ある時期に三条大路末を九条山の辺りで東山を越える新しい道が設置されたようです。
当初は道が石だらけで通りにくかったところを、革聖と呼ばれ、庶民から尊敬された平安時代中期の僧「行限上人」が、右大臣藤原実資から支援を受け、長和5年(1016年)にこの街道を通る人々に協力を求め、大がかりな石取り作業を成功させました。この活動により、この道は通行しやすくなり、やがて正式な東海道として扱われるようになったのです。
祇園社境内(「祇園会細記』、江戸時代中期、京都府立総合資料館「京の記憶アーカイブ」から)
祇園祭は、平安時代に始まった御霊会を起源として始まっています。御霊会とは、疫病などの流行を亡くなった方々の怨霊の仕業と考え、その鎮魂のために行われる法会のことを指します。
最初の御霊会は863年(貞観5年)に神泉苑で行われ、金光明経や般若心経の説法、歌や舞の奉納などが行われました。その後、平安京の周辺地域である船岡山、紫野、衣笠、花園などでも開催されるようになりました。
鴨川の東に位置する愛宕郡八坂郷も、そうした場所の一つでした。ここから八坂御霊会、すなわち祇園御霊会が始まったのです。
「祇園社」の成立にはさまざまな説があります。平安時代前期、八坂郷に薬師如来を祀る感神院という寺が建てられ、その一角に牛頭天王を祀る天神堂が設けられたというのも一つの説です。
また、祇園の名前の由来は、インドの祇園精舎から来ています。摂政藤原基経が自宅を移して堂宇を建てた行為が、祇園精舎の創建に似ているからとも、また牛頭天王が祇園精舎の守護神であったからとも言われています。八坂郷での御霊会が盛んになると、天神堂が祇園感神院の中心となり、「祇園社」と呼ばれるようになりました。
平安時代後期には、京都内の三条から五条の間が祇園社の敷地と意識され、氏子園が形成されました。五条以南の地域は稲荷社、京都内の北部は御霊神社や今宮神社の氏子圏となったのです。