三条通デジタルマップ

先祖代々引き継がれる伝統の店「西村吉象堂」

1924年より、三条通にて漆器や工芸品の取り扱いを行なっている西村吉象堂(にしむらきっしょうどう)。先代の西村吉蔵さんより代々続くお店を、2代目西村新一郎さん、3代目西村祐一さんが受け継ぎ、漆器の販売だけではないオーダーメイドや修理も行なっている。今回は約100年に渡り伝統を受け継ぐ西村吉象堂で、2代目西村新一郎さんにお話を伺った。


1924年の創業時から受け継がれるお店と伝統

(現在の西村吉象堂 外観)

(創業当時の西村吉象堂 外観)


ーーまずは新一郎様のこれまでのご経歴をお教えください。


私は1933年に生まれ、1956〜1966年までは大阪の広告代理店で務めていました。私たちの商売は、伝統的な古い商売なので、新しいものを学ばなきゃいけないと思ったんです。


10年間広告代理店で務めたあと、父が病気になったのをきっかけにお店に戻りました。そこから1年半ほどで父は亡くなりましたが、その間にいろいろなことを教えてもらい、西村吉象堂を引き継ぎました。今は息子の祐一が、お店を切り盛りしてくれています。


ーー1924年の創業当時から、お店は変わらず今の形だったのでしょうか?


今あるガラス張りの外観は、昔は格子戸の外観だったようです。それを改修して今のガラス張りになったんですが、当時はまだこれだけ大きな日本製のガラスがなく、アメリカ製のものを取り寄せて施工しました。


そのあとお店を大きく改修したのは、1991年のこと。本来であれば建物を一から建て直した方が安く済んだのですが、私たちはここで暮らしながら商いもしていますし、古いものを残していこうと思いました。当時の職人さんと相談し、約1年8ヶ月の月日をかけて、建物を3分割に分け改修しました。お店部分を改修している間には、私が外に出て商品を販売し、なんとか乗り切ったんです。


1930年代から変わっていく三条通を見つめて

(創業当時から受け継がれる漆器の数々)

(店内には多くの漆器や工芸品が並んでいます)


ーー三条通で生まれ育った新一郎さんからみて、三条通はどのように変化してきたと思いますか?


第二次世界大戦の始まった1939年当時、、三条通はいわゆる問屋や小売業が多く並んでいました。ただ、どちらかというと小さな小売店は少なく、大きな問屋が多かったように思います。終戦後、そんな三条通は本当にいろいろな職業の方が増えました。1970年代の日本が一番儲かり出した頃くらいまでは、大体そんな時期が続きましたね。


そこから2023年にかけて、だんだんと小売業のお店の間にちょっとしたビルが並ぶようになりました。ただ、ビル自体はそこまで多くはならず、小売業のお店が軒を連ねているのが今の三条通だと思います。


ーー「人通り」という観点からはいかがでしょうか?


三条通は伝統的なお店や建物が多いので、四条通のように人が溢れて雑踏になるということはありませんでした。そんな時代のなかでもよく人が通っていたと感じるのは、戦前と戦後。反対に人通りが少なくなったのは、元内閣総理大臣の田中角栄さんの日本列島改造論の後、徐々に景気が傾いた時です。当時は三条通だけでなく、日本全体がそうだったと思いますが、烏丸までの通りをみても全く人がおらず、商売が難しい時代でした。


ーー昔を振り返り、お店周辺の様子で印象的なことはありますか?


西村吉象堂の隣は、1946年に旅館「日昇別荘」になるまで、京都の三大呉服商と言われた「大黒屋」杉浦三郎兵衛さんの邸宅でした。当時は自家用車を持っている方は珍しく、三条通では大黒屋を含め車は2台のみ。ご主人がお出かけになられる際、邸宅の前に停まるハドソンの車を、みんなでよく眺めたものです。その当時、私は4歳くらいでしたかね。


京都の中心地で「暮らす」ということ

(15歳の頃、お母様と撮られたお写真)

(中之町の地蔵盆で町内の子供たちを見守る姿。)


ーー私は今回初めて三条通に来たのですが、古いもののなかに新しいものが混ざった面白い場所だと感じました。新一郎さんは三条通に対してどんな印象をお持ちですか?


おっしゃる通りで、この三条通は古いものと新しいものが混じり合っています。大正時代には道幅を広げようという話もあったそうですが、三条通は京都文化博物館や中京郵便局など歴史的な建物も多く、結局は四条通の道幅を広げることとなりました。そんな時代を経て、三条通には古いものが数多く残っているんですね。


また、三条通は東海道五十三次の終点である三条大橋のある場所です。三条通と烏丸通の交点には京都道路元標もあり、明治時代に三条通が京都のメインストリートとして機能していたことからも、ここは京都の中心地だと思っています。

(三条通と烏丸通の交点にある京都市道路元標)

(改修を終えた三条大橋)


ーー新一郎さんはお住まいも三条通ですよね。三条通の住みやすさについてはどう思われますか?


とても暮らしやすいです。三条通は中心地だからこそ、少し歩けば電車や地下鉄もあり、御所の緑やお寺も多い。買い物をするにしても高級店もあれば庶民的なお店もあり、今はスーパーもあります。私はここで生まれ、ここで仕事をし、そしておそらくここで死んでいくことでしょう。とても幸せな人生だと思っています。


ーー京都の方にとって欠かせない祇園祭との関わりについてはいかがでしょう?


祇園祭はいろいろな団体が関わっているんですが、私はその中でも八坂神社清々講社(祇園祭の神輿渡御の運営をサポートする募金組織)の幹事をしていました。元々祇園祭は、869年にさまざまな疫病や災難が続いたことで、八坂神社の神様に厄祓いをしていただいたことから始まっています。


子供の頃は7月になると祇園祭が楽しみでとにかくワクワクしていましたし、大人になってからもそういった団体で活動することで、祇園祭にはずっと関わってきました。


商いに飽きない。商売で賑やかな街をこれからも。

ーーお話をしていると新一郎さんは本当にお元気でエネルギッシュな印象を受けます。その秘訣はやはり商いをしていたことにあるのでしょうか?


確かに商いをしていると、売上や資金のこともよく考えるので頭を使いますし、お客様とのお話も適当なことは言えませんのでよく調べたりします。


ただ、私個人のことでいえば、幼少期から読書や映画が大好きで、片っ端から本を読み、洋画などにもよく連れていってもらった子供時代でした。同世代の友人に比べ、考えることや調べることが好きだったことが今に繋がっているのかもしれません。


ーー新一郎さんは長年三条通を見てきて、今後の三条通がどんな場所になったらいいと思いますか?


私は三条通が賑やかで、かつ住みやすい場所であったらいいなと思います。「お客様がゆっくりと歩いて楽しめる場所に、いいお店がずらっと並んでいる。」、三条通はそういう場所であり続けてほしいですね。


ーー「いいお店」というキーワードが出ましたが、新一郎さんが三条通に残していきたいいいお店の条件とはなんでしょう?


店主の哲学にもよりますが、価格の高低に関わらず品物がきちっとしていること、かつ種類があること、そしてお客様に対する応対が親切であることがいいお店だと私は思います。


商売はええ格好してやっても、売れなかったら意味がありません。細心にいろいろとよく考えること、一旦決めたら大胆にやること、やり出したら粘り強くやること、ダメだと思っても諦めずゆっくりとした気持ちでやること。商売は「商い」とも言いますが、言葉の通り「飽きない」ことが大切です。三条通で商いをする若い方たちも、諦めず熱心に商売を続けていってほしいですね。



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