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祭りと商いを通じて日本の伝統を守り続ける|長谷川松寿堂

大正8年(1919)に創業し、昭和11年(1936)より三条通りで色紙、短冊、和紙工芸品などの伝統産業に携わる「長谷川松寿堂」。祇園祭後祭の山鉾巡行では、くじ改めの開催場所として使用されていた場所でもある長谷川松寿堂で、今回は代表取締役を務める長谷川忠夫さんにお話を伺った。


1919年創業。伝承産業を守る「長谷川松寿堂」とは

(長谷川松寿堂外観)

(さまざまな色紙や和紙が並んでいます)


ーーまずは長谷川松寿堂がどんなお店なのか教えてください。


私どもは大正8年(1919)創業の色紙、短冊、和紙、工芸品を扱う店です。主に全国の文具店、お土産屋、民芸店などの小売店に品物をお納めしています。


お客様として多いのは、書道関係など主に和文具を必要とされるお客様ですが、最近はシンプルな短冊や色紙よりもカラフルな染紙が人気があり、「友禅紙」を使用した加工品を海外にも輸出させていただいております。友禅紙とは、江戸時代の絵師であった宮崎友禅斎が生み出した友禅染め技法を応用した紙で、弊社のオリジナル商品として人気があります。


ーーずっと三条通で代々商いを続けてこられたのですか?


私たちは創業時、六角通で商いをしておりました。しかしその後、昭和11年(1936)に三条通へ移っています。三条通に移転した理由は、三条通が京都のメインストリートであり、商いをしている人間からすると、ここに店を構えるということがステータスだったからです。


そこから商いを続け、現在の建物に改修したのは平成7年(1995)のこと。当時の建物は京都の景観保存にも指定されていたため、改修における審査が非常に厳しかったんですが、改修時、三条通の道路側にでていた町屋をセットバックし、1階に通り庇(ひさし)をつけることで町屋らしさを残しました。居住空間である4階以上はベランダ部分を庭にして植物を植えることで、通りから建物が見えないようにしました。改修した建物は京都市都市景観賞市長賞をいただき、現在の三条通における景観保護の見本とされています。



これまでの経歴とまちづくりにおける役割

(店の前でくじ改めが行われている様子)


ーー長谷川さんはこれまでどんな人生を送られてきたのでしょうか?


私は1950年(昭和25年)に三条通りで生まれました。日彰小学校、初音中学、堀川高校、同志社大学と学生時代を京都で過ごし、大学卒業後は3年間、東京日本橋にある老舗問屋「丹波屋」で働きました。丹波屋は横山町という問屋街にあるお店で、弊社の商品のほか、海外のクラフトなどを取り扱っていました。そこでいろいろなことを学ばせていただき、その後家業を継ぐため三条通へ戻りました。父が亡くなったことをきっかけに、長谷川松寿堂の代表取締役になったのは、1996年(平成8年)のことです。


ーー三条や京都におけるまちづくりでの役割といった観点ではいかがでしょうか?


三条まちづくり協議会が始まった時、副会長を私の父がしておりました。そして今は、私が協議会の監事という役割で入らせていただいております。主な仕事としては、三条まちづくり協議会の決算や経理のチェック、他には協議会としての在り方などを一緒に考えています。


その他、祇園祭の運営をサポートする八坂神社清々講社(せいせいこうしゃ)の副幹事長もしております。父も同じように役員をしており、当家の前は祇園祭の後祭りで山鉾巡行が三条を通っていた頃、くじ改め(祇園祭の山鉾巡行における儀式の一つで、巡行する山鉾の巡行がくじ取り式で決めた順番と合っているかを確認するもの)をしていた場所でもあります。なぜ当家の前がくじ改めの場所に選ばれていたのかは私にもわからないのですが、今は三条通を山鉾が巡行しなくなったため、御池市役所前で行われるくじ改めに同席しております。



変わっていく三条通での思い出を振り返る

(店の前を祇園祭の山鉾が通る様子)


ーー長谷川さんの幼少期における三条での思い出を教えて下さい。


三条での思い出といって浮かぶのは、今はもう文化博物館になっている旧日本銀行京都支店の壁に向かってキャッチボールをして遊んだことです。私が小さい頃はまだあの場所が銀行として稼働していて、壁に向かってボールを投げ、時には球が銀行内に入ってしまうこともありました。そんな時は「おっちゃんちょっと入れさせて〜!」という感じで、球を回収しに行っていて、今では考えられませんが当時は私たちの遊び場所でした。


あとは祇園祭の時に学校の友達を呼んで、家の2階からよく祭りをみていたのもいい思い出です。今だに小学校の同窓会では「家で祭りを見させてもらったなぁ」なんて話になり、当時の私にとっては当たり前のことでしたが、思い返すと楽しかったなと思います。


ーー大人になって三条で商いやまちづくりに関わるようになってからの思い出はいかがでしょうか?


三条まちづくり協議会がはじまったあと、三条通の電線地中化・無電柱化の計画が出ました。あの当時は私もまだ若く、父が役員をしていましたが、当時は皆さんといろいろな検討をさせていただきました。結局は大きな変圧器の置き場所を確保できず、あの時点での実現は叶いませんでした。


他にも三条通の人通りが増えてきたことをきっかけに、歩道部分の段上げや、歩道に木を植える計画が出たこともあったんです。道自体も少し曲がりくねった形にすることで、見た目的にもかっこいい通りにしようとしていました。ただ、三条通は神輿が通ります。神輿というものはまっすぐ進むものであり、歩道を上げたり道を曲がりくねらせてしまっては、神輿が通ることができません。


だからこそ、当時はその計画に父が強く反対をしたようです。結果として三条通りは歩車共存道路として使用され、祇園祭でも神輿が通ることができます。私はあの時その計画が進まず、正解だったと思いますね。



私の生きがいは、祭りと商いを通して日本の伝統を守ること

ーー最後に、長谷川さんがこの三条通に残していきたいものを教えてください。


やっぱり昔からの伝統を残していきたいですね。私たちの商いも伝統産業ですから、昔から続く伝統をこれからも守り続けたいです。


私は八坂神社の清々講社で役員もやっているとお話しましたが、祭りというものは伝統産業がなければ成り立たず、同時に伝統産業も祭りがなければ続いていかないものなんです。着物にせよ、足袋にせよ、神輿の金具にせよ、組紐にせよ、すべては伝統産業からできていますから。


祭りこそ、日本文化が結集したもの。若い頃は、「この忙しい時期に祭りなんて」と思うこともありましたが、今ならわかります。祭りを続けていくことが、日本の文化を守っていくことに繋がっている。こうして祭りや商いを通して、日本の伝統や品格ある三条通を守っていけることが、今は本当に生きがいです。


ーー変わりゆく三条通のなかで、なかには通りの伝統を知らずに入ってくる方もいるかと思います。そういった方に対して、なにかお伝えしたいことはありますか?


商いをするのであれば、私は美しさを大切にしてほしいですね。美しさのなかには、ご自身の誇りやセンスが必要になっていきます。商品だけの美しさではなく、提供の仕方における美しさまで、「美しい」ということを大切にしてほしいです。


また、街並みを守っていくという意味では道徳心は大切ですね。道端にゴミを捨てる、ものを勝手に壊すなど、そういったことはあってはいけません。「美しい街を作っていくんだ」という意識のもと、この文化の香り漂う美しい三条通を守っていけたら嬉しいです。


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